4/03/2010

ヒトとネズミは違うのか

さきほど、学生さんと話をした。(え、おまえ仕事してるのかって?してます、たぶん(笑)。自分がそうであった、今もそうであるように、誰かが話を聞きたいと言ってきたときは、できるだけ自分が学んだことを人に伝えようと、MBAを出てさらに思うようになりました。)

そこで、「自分の転機になったことはなにか?」という質問をいただいた。学生に向けて、ということで、僕が学生時代に考え、今でも記憶に残っていることとして、ネズミに関する思い出を。


僕は、大学時代心理学専攻で、半年ほど、ネズミを使った学習実験を行った。きわめて古典的なもので、ネズミがレバーを押すと餌が出てくるというものだ。実験自体はシンプルなもので特筆すべきものではない。ただ、半年間もネズミ二匹を世話していると、愛着がわいてくる。名前をつけ、日々その行動を観察していると、「ネズミにもこんなにも個性があるのだ」ということに気づかされる。ぼんやり、薄暗い実験小屋でそれらの世話をする中で、ネズミを通して動物の進化の過程の、最初の一ページを開いたような気持ちになった。

ある日、ふと、「自分たちヒトとネズミに、違いって本当にあるのか」ということが頭をよぎった。大学3年の暑い夏の日に、ふと頭に思い浮かんだ馬鹿な問いだ。でも、その問いは「お前は何をもって自分を自分と決めているのだ」と語りかけてきた。僕らは普段、自分は唯一無二の存在、個性をもっていると考え、日々いかにして「自分らしさ」を出せるかに四苦八苦している。でも、ほんとに、その「個性」はそこまで意味があるものなのか?ネズミにだって個性はある。ネズミが僕らにとって、(たとえどんなに愛着がわこうと)突き詰めればネズミでしかないのと同じく、僕らはどこまでいってもヒトという種の枠は超えられない。僕らが大事に思っている個性というものは、客観的にみればネズミどうしのちょっとした違い程度のものなのではないのか。

そんな考えが頭に居座るようになり、それは、実験が終わったあとも残った。就職活動が始まり、自分の居場所を探す中で、自分を含めたまわりの動きをみていると、ますます、自分の疑いは深まっていった。

四年生になり、卒業が近づく頃、別段、特別な出来事が起こったわけではない(もしくはすでに忘れているのかもしれないが)、気がつくと、「それでいいじゃないか」と思うようになっていた。本来的には違いなどないと思う方が、むしろ「自分」というものを取り戻せるのではないか、と思うように。ネズミがネズミであるのと同じように、ヒトはどこまでいってもヒトでしかない。自分は数多くいるヒトの一匹なのだ。


逆説的だが、そう思うようになって、自分にとって「ヒトであること」が見えてきた。

ひとつは、ケージを選ぶ、ということ。僕らは、自分のケージは自分で選ばなければならない。会社、住む場所、コミュニティ。学習実験のケージに入れられたネズミが、3ヵ月後には訓練前のネズミと別物になるのと同様に、僕らも入るケージによって、自分というものを変容させる。そして、幸か不幸か、僕らは自分のケージを(意識する、しないに関わらず)常に選んでいる。ならば、意識して選んでいこう、自分のケージを。そして、自分の変容は自分でコントロールしよう。

もうひとつは、僕らの長い時間だ。ヒトは、ネズミの何倍、何十倍も長く生きる。時間は、動物を変容させる。我々の多くは学習はヒトの特権だと思っているが、特権は学習自体にはない。ネズミにだって学習はできる。僕らに与えられているのはその時間なのだ。僕らはネズミよりはるかに長い時間を生きる。その時間を、意識して学習にあてるか、漫然としてすごすかは、その個体次第だ。ならば、日々少しでもいい、学習を重ね、個体として成長しつづけよう。長く生きることに意味をもたせよう。


そう思うようになり、時は流れ、僕のケージは東京、シアトル、ボストン、そしてシリコンバレーに移り、ゲームのスタートアップで新しいマーケットに挑戦している。今も、ちょっと寿命の長いネズミのチャレンジは続いている。

1 件のコメント:

Pasona まさほ さんのコメント...

土曜日はお忙しい中本当にありがとうございました!
学生達も、「とてもよい刺激とアドバイスをいただいた」と喜んでました。