5/02/2010

走るということ、スポーツをするということについて

僕は、昔から、走ることが好きだ。
「お前はなぜ走るか」と聞かれれば、それは間違いなく「自分を知るため」「自分をより正確にコントロールするため」と答えるだろう。


中学校から、僕はクラブ活動としてバドミントンを始めた。バドミントンをやったことのある人はわかると思うが、バドミントンは一にも二にも持久力のスポーツである。基礎体力のために、毎日10kmほどを走りつづけた。クラブ活動としてのバドミントンは高校までで一端終えたが、走ることは大学生になっても続けていた。


走ると最初に気がつくのは、「いかに体が思うように動かないか」ということである。腿は上がらず、息は切れ、思うようにスピードが出ない。その状態に耐えて、しばらく続けていると、少しずつ、全身が自分の思うように動くようになってくる。いや、ただ無自覚に走り続けているのでは不十分で、「腿をこれだけ上げる」「スピードをこれだけ出す」といった、細かな全身のコントロールを意識的に行おうとすることが、少しずつ、しかし確実に自分の体を変えていく。走るということは、僕にとっては自分の体が自分の意のままに動いてはいないことを知ることであり、その自分の体と対話する、という行為だ。その行為を通して、徐々に自分を意識的してより正確にコントロールできるようになることが、自分にとっては走ることの醍醐味になっている。


「自分をコントロールする」というのは、何も肉体だけではない、感情も含まれる。感情に関しては、1対1のゲーム形式のスポーツを通して、自分をよりコントロールできる可能性があることを僕は知った。僕は中高はバドミントンのシングルスをやり、大学生から学校の授業を通してフェンシングを学び、社会人でSunday Fencerになった。バドミントンにせよ、フェンシングにせよ、対戦型のゲームでは、熱が入ると、「勝ちたい」という気持ちが湧き上がり、アドレナリンが自分の運動能力を引き上げ、反射速度を上げる。ゲームを通して、自分の能力が変わるのを体験するのが非常に面白かった。やがて、ゲームの前に、意識して「勝つ!」と感情を高ぶらせることを試みるようになり、自分のコンディションを意識の面からコントロールすることを試みるようになった。感情というのは、きわめて動物的なもので、その発生プロセス自体を変えることはできない。しかし、そのプロセスを理解して、適切な場面で適切な感情が発生するようにコントロールすることは、努力次第でかなり可能だ。


最近になって、週末に走ることを再開した。昔ほどは体は動かないが、その状態を知り、また少しずつ変えていくプロセスが面白い。仕事が一段落して、時間ができたらフェンシングも地元のクラブで再開する予定だ。


前にも書いたことがあるが、ヒトもしょせんはネズミとたいして変わらぬ動物の一種だ。だが、ヒトが面白いのはその条件付けを自分たちでできることだ。生まれ、感情に振り回されて生き、やがて病や老衰で死ぬのは変わらない。しかし、その自分の動物らしい側面を、走ることやスポーツを通してコントロールするというのは、きわめて人間くさい、おもしろい行為だと思う。

1 件のコメント:

TakaImada さんのコメント...

追記:
僕は、感情はできるだけプロアクティブに、かつはっきり出すようにするように心がけている。

感情は動物としての我々にあらかじめ埋め込まれたもので、消すこと自体が無理だ。もし感情を「消せる」と思っている人間がいるなら、それは自分が動物であることをわかっていないが故の傲慢な思い込みだ。

大事なのは、「今すでにある感情」から次にどういう感情にシフトしていくかを考え、それをできるだけ自分の体が受け入れやすい方法で起こしていくことだ。

なので、僕は、うれしいときにはものっすごい喜ぶし、落ち込むときは「落ち込んでいる」と言って落ち込みます。(1時間したらけろっとしているのは鈍いからではなく、前向きに感情を変えていくようにしているからです(笑))。