6/04/2010

「勝ち組」って誰に勝つの?

この間ふと思ったのだが、「勝ち組」とか「負け組」とか、日本でしか言わない気がする。前々から思っていたのだが、日本にいると、非常に抽象的なこと、たとえば「人生の幸せ」みたいなことについて、人と比べることを暗黙のうちに多くの人がやるような気がする。(「勝ち組」って、おそらく人生の、だよね?以降の話はこれを前提に進めます。)


当たり前なのだが、「勝ち」「負け」を比べるからには、同一の尺度で測らなければ意味がない。りんごはりんごと、オレンジとは比べてはいけない。でも、自分の人生って、人と比べられるのか?わかりやすいところでいえば、収入とかをさしているのだろうか?それとも学歴?まあなんでもいいのだけれど、ひとと比べる時点で、「僕はだれかさんと交換可能なその他大勢です」と認めているようなものじゃないのか?誰かと比べることのできる何かのために生きているとしたら、そんな歯車みたいな人生、始まった時点で絶望するべきじゃないのか?


僕が新入社員だったころ、ある先輩に、「同期と比べて、自分をどう思う?」という質問をされた。そのときは、「何をくらべるのですか?パフォーマンスですか?同じジョブロールでない同期とは比べようがないと思います。比べるとすれば、同じロールである先輩との方がいいかと思いますが。先輩と比べて、何が足りていないと思っていて、どういうキャッチアッププランを考えているかならば、話せます。」と言って、嫌な顔をされたことを覚えている(笑)。
この考えは僕が後輩の面倒を見るときにも必ず伝えていた。「同期と自分を比べるな。会社に入りたての、しょぼいひよっこに勝ったところでなんの意味もない。逆に自分の能力を落とすことにもなりかねない。そもそも、やってる仕事も違うものどうしが何をどう比べるんだ?君のライバルは同じ職種の僕であり、(同じ部署の)先輩である~さんだ。ここは外資だ。君のパフォーマンスに対して会社はお金を払う。いかにして僕や~さんに仕事で追いつき、追い越すかを常に考えろ。」


たとえば特定の職務の、特定のパフォーマンス(たとえば営業成績)等については、常にほかとベンチマークしながら数字をあげていくのは正しい。でも、抽象的な「仕事をする」といったこと自体は比べようがない。そもそも仕事をするのは、その仕事が好きだったり、もしくはその仕事の対価として得るお金で自分の夢をかなえるためで、自分がその仕事を好きなことや、自分の夢なんて、誰かと比べられるものじゃない。「比べられる」といっている時点で、仕事に対する思い入れや生活の中の自分の夢を失ってしまっていることを、自分から暴露しているようなものだ。


きっと、「勝ち組」「負け組」といった言葉がはやる背景には、仕事に対する思い入れ、生活の中での夢、といったものについて考える余裕がなく、思考を停止して他人と比べることでしか自分の居場所を見つけられないような社会になっている、ということだと思う。こういう言葉は、早くなくなればいいと思う。

3 件のコメント:

えいち さんのコメント...

Imadaさん本当に文章お上手ですよね。 読んでて羨ましくなります。
 
確かに、日本では一個の尺度で上と下を決める傾向がありますよね。 新卒から外資だった自分は「同期」がいないのでそういった意味で幸せなのかな。

takashimoda さんのコメント...

同感、そういう見方も出来ると思います。ただ、勝ち組、負け組というのはコマーシャル用に出来た言葉で本質を示しているわけではないですよね。本質でないから勝ち組、負け組という言葉を使うと儲かるわけですわ。
儲かるという事は人々にラクに受け入れられるという事につながります。

では勝ち組、負け組の裏にある本質とは何かとなると、今田さんが指摘しているように「自分尺度で生きる事」。これは痛みどころか猛烈な葛藤に襲われます。なので普通の人はできないんですよね、だから人と比較して本質的な部分から逃避して、ラクしているのではないかと思います。

自身の軸を持って生き抜く事は、現在の日本という島国ではかなりタフです。海外から戻ってくる「デキル人たち」を見ていて痛感します。日本文化は諸外国と互換性を持たないんです。なので、諸外国のソフトを持っていても国内では活かせない。活かそうと思うとコスト(リソース)がかかりすぎる。

自分の持っているソフトをどちらを使いたいかで、国内にとどまるべきか、国外に活路を見出すかはそこは個々人の判断になりますよね。

日本がGDPが世界2位じゃなければとっくに世界中の人々からそっぽ向かれていると思います。その現実がまさに近付いて来ている。
その時には互換性を持った人材が活躍するだろうし、その日も近いのでは。

グローバルスタンダードでありながらアジア人のエッジを持っていればいい。日本人にこだわる必要はない、と思っています。

TakaImada さんのコメント...

えいちさん:
よくありがちなのが、「上下」は気にするのに、何についての「上下」がはっきりしないケースですよね。よく「~度」とかで「私はX点です!」みたいなことを叫ぶのに、「~」の中身についてはまったく議論されていない、みたいな(笑)。

Shimodaさん:
僕は、われわれは「~人」になることを、意識的に選択するべきだと思っています。
言い換えると、「国」は選ばれるものにならないといけない。たとえば、アメリカには多くの優秀な人たちがきたくてきており、そうして入ってきた人たちが、「アメリカ人」になってこの国の活力を生み出していると強く感じます。

日本という国も、土着の人間だけでなく、世界中から人を引きつける国にならないと、明日はないと思います。