8/06/2010

他人を気にしているうちは、幸せにはなれない

さっきまで、友人(というか、大先輩ですね(笑))と飲んでいて、合意したことがある。
幸せになる人は、自分がどうしたら幸せになれるかを知っている。


僕は「特別には」幸せなわけではない(そりゃ借金抱えて、母国以外で苦労するのを楽しんでいるのを、ものすごく「幸せ」というのは、はばかりがあります(笑))が、不幸ではないとは、言える。自分がしたいことをしてる範囲において、自分は間違いなく幸せだろう。今まで、一緒に飲んでいただいた先輩も、自分の道を選んで、その方にしかできない生き方をしていた。自分が何をやりたいかを知っているということは、幸せになる方法を知っているということだ。


では、不幸とはなにか。トートロジーのようだが、自分が幸せになるために、何をしたいかを知らない人ではないか。「自分がしたいことをしている」なんて、当たり前のようだが、実は結構な数の人がしていないのではないかと思う。


なぜ、そういう状況が存在するのか。ひとつに、「場」による価値観の強要があると思う。「~をしていることがすごい=幸せだ」といった価値観を強要される状況が、場所によってはある。(例:「 お金をもうけていることがすごい=幸せだ」「xx社で働いていることがすごい=幸せだ」「○○大学を卒業したことがすごい=幸せだ」)


例にあげたことのうち、それぞれ「すごい」までは別に共有してもいい。「すごい」という言葉も非常にあいまいなのだが、「極端」という意味であれば、相対的に定義できる(他者と共有できる)。ただし、「幸せ」は共有できない。「幸せ」というのは、基本として個人に帰属するもののはずだ。たとえばA君がどれだけカレーが好きでも、B君はカレーが嫌いだったら、カレーを食べて幸せにはなれない。そのカレーを「(一般的、相対的に)おいしいカレー」とはいえるかもしれない。でもB君に「おまえはおいしいカレーを食ったんだから幸せだ」というのはおかしい。(すみません、カレーに「幸せ」のすべてを代表させるのはおかしいという、至極まっとうな批判はこの際無視します。)幸せの定義は「絶対」だ。自分が幸せと思うか否か、それだけだ。


だが、場所によって、「幸せ」まで共有することを強要させる状況があると思う。自分で幸せを定義する、というのは、当たり前のようでいて、時に反社会的だからだ。「お前がやっていることは、おれ個人の「幸せ」にとっては何の意味もないよ」ということを、認めたくないようなコミュニティの場合、それは「反社会的」行為になる。


そんなコミュニティに生きる人に生まれる症状は、「幸せになれないことにがんばることを強要されて、ますます不幸せになる」「(自分が幸せになる方法を自覚していないので)どこまでいっても自分が幸せになった気がせず、常に不安になる」といったことだ。自分がどうすれば幸せになれるかを忘れてしまった人は(自分にとっての幸せではないにもかかわらず)誰かが勝手に決めた幸せを(幸せに到達できないがゆえに)どこまでも追っかけ続けるしかない。


そういう人々には、「不安」が絶えず付きまとう。「幸せ」が相対的なものである(しかも実は自分が本来望んでいることではないかもしれない)がゆえに、100%満足できる状況には永遠にたどり着けない。常にベンチマークを探して、「~よりは少し幸せなはずだ」「~よりも幸せというには~がたりない」と考えることを、永遠に繰り返し続けることになる。このために、不幸せな人の特徴として、常に他人の動向が気になる、というのがあると思う。


でも、よく考えてほしい。今、地球上には69億人もの人がいます。そのすべてと自分を比較しているうちに、あなたの人生は終わっちゃうよ。逆に、ほぼ「無数」といってもいい人々が世界にいる中で数人をピックアップして「~と比べて自分は~」とあなたが言うとしたら、その比較はきわめてコミカルだ(笑)。


そんなことをしなくても、あなたは幸せになれる。自分がやりたいことをわかって、それを(我侭といわれながら(笑))やりさえすれば、「自分がやりたいことをやってるんだから、幸せだわ」と思えるようになる。幸せになる方法は、隠されているわけじゃない、実はあなたはもう知っている。やるべきことはただひとつ。「自分がこれをしたら幸せになれる」ということを勇気をもって認めることだ。他人はどうでもいい。あなたにとってもっとも大切な人は、あなた自身だ。

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