11/27/2010

「性格」なんてあるのか?

最近日本に帰ってきて気づいたのが、(最近会った)人はやたらと「性格」について話したがる。「~は社交的だ」「~は気難しい」「~は几帳面だ」等々。あと、僕が日本にいてよく言われるのが、「~な風にみえない」という話。(かつ、~の部分が、時と場所によって180度ひっくりかえることが多々ある。)


僕自身の見方、というよりも物事の捉え方を話すと、僕は元来、ヒトに変わらない性格なんて存在しないと思っている。そもそも性格とは何か。定義は様々だが、「自分の行動を長期にわたって規制するひとつのルール」とここではしておく。「社交的」「几帳面」「行動派」等々、いろいろな要素についてヒト(特に日本人)は話したがるが、多くは自分自身で(そして周囲から言われて)「自分は~な人間だ」と思い込んでつくっているルールにすぎない。心理学では、性格というのは非常に流動的で状況に依存することを示す実験結果がいくつもある(ミルグラム実験など)。このことは、あなた自身でも実験できる。「留学」といったものや「就職(職場を変える)」といったものもひとつの学習実験だ。その場にあわせて人は変わる・適応する。動物として当たり前の行動なのだ。


なので、自分自身について、僕は性格というものを極力限定しないようにしている。基本的には、ルールはふたつ。1) そのとき、その場で達成したい自分にとってのゴール設定を確認し、それを達成するための最適な行動をとる 2) 周囲の人間の嗜好を分析し、自分のゴールを達成する上で周囲の協力を得られるように最適なふるまいをする。


上記を行う上で常に気をつけているのは、前の行動に引きずられないことだ。動物は、一度やった行動で問題がなければ基本的には同じ行動をするようにできている。しかし、場所が変われば最適解も変わる。常に意識して、時、場所の変化とともに「自分の性格」を真っ白に戻して、その場で自分がとるべき行動のルールの設定を常に変えるように、意識している。(なので、違う場であった人間には「性格が違う」といわれることがままある。)


ところで、なぜヒトは性格について話したがるのか?これは多分に自己肯定の問題が絡んでくる。ヒトは常に自己肯定したいという要求に突き動かされて生きている。自己肯定の形は様々だが、「自分の行動のルールは誰よりも優れている」と認められたい、というのもひとつの自己肯定の形と思われる。これを確認するために、周囲のヒトと自分、相手の性格を話す、という行動が生まれるのではないか。


ちなみに、自己肯定の裏返しが、自分の存在が周囲に受け入れられないことへの不安と言える。アメリカにいたときには、友人とお互いの性格について話すことはほとんどなかった。お互いの行動ルールが違うのは当然で、人生の行動様式は個々がそれぞれでもっているものだという認識があったと思う。振り返って日本で感じるのは、社会からの同調圧力が強く、自分の存在に対する不安を多くの人間が抱えているのではないか、ということだ。まあ、あくまで僕が接している範囲の人間の話ではあるが。

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