5/11/2010

B-Schoolに行ってよかったこと - 自分の幸せを考えられるようになったこと

B-Schoolに行ってよかったことは何か。数え切れないほどたくさんあるが、最大のものは「自分の幸せを素直に考えられるようになったこと」だと思う。

ハーバードに行く以前、僕は細かく自分の人生のマイルストンを決め、それに沿って行動し、ハーバードに入った。入社3年以内に業界を変えるような新規プロダクトの担当者になり、マーケットを開拓し、業界紙に記事が載るような活躍をし、その実績をひっさげてビジネススクールに入る。
プランは当然学校卒業後についても青写真があり、それに従って途中までは行動していた。

が、卒業間際で、それをポンと捨ててしまった。
(実際には、「ポン」とはいかず、最後まで悩んだのは悩んだが。)


なぜか。描いていた絵が、どうしようもなく色あせて見えるようになってしまったのだ。


目にうつるものの色が変わったことには、いくつか理由がある。


1.どこでも(死ぬほど努力すれば)やっていける自信がついたこと

MBAにくると、(一応は)あらゆる業界への扉が開く。あらゆる業界から、ミドルマネジャーとしての求人が学校にくるようになり、一気に可能性の扉が開く。

もちろん、実際にはそれまでの実績を厳しくチェックされ、選ばれて初めて違う業界に移れるわけで、業界を変えて転職するのは非常にたいへんだ。だが、まちがいなく、ビジネススクールに来る前と来た後では、可能性の幅は明らかに広がる。

加えて、ハーバードでは、600-800のケースを読む。すわなち、多様な業界、多様な会社について、思考訓練を600-800回繰り返すわけである。(紙と現実ではもちろん大きな差はあるが)今まで考えたこともないような業界、企業の決断の場面で考えをめぐらせることを2年間続けると、新しい環境でチャレンジして前に進むことが、DNAに刷り込まれる。

その仕事をやりたいと思い、「死ぬ気で」努力すれば、必ずやりたいことをできるようになれる、というかできるようにする、と考えるようになった。(まあ、大いなる勘違いという話もありますが(笑)。)


2.900人もの多様な同級生と出会ったこと


ビジネススクールのいいところは、多様な業界のトップ企業から若手のエースが集まることだ。ハーバードは毎年900人の学生が世界中から集う。ビジネススクールに来る以前は、自分の中に「~業界ってxxだろうな」「○○社から来た人間は△△じゃないだろうか」みたいな思い込みがあったように思う。が、実際に会ってみると、みんなふつうの学生だ。いやみんなものすごい経歴なのだが、相手も自分も同じ人間なんだ、と思えるようになる。一緒に酒を飲んでバカ騒ぎしたり、夜中に飯を食べながら夢を語ったりする中で、本当にお互いを理解できるようになる。

言うと当たり前なのだが、どの業界、どの企業であろうと、エース級の人間はものすごく優秀で、そして魅力的だ。そして、隣にいるやつがやってきたことと同様、自分がやってきたことは面白いことなのだ、ということに気づかされるのだ。それを、実際に友達を通して体感する中で、「自分にとって大切なものは何か」を考えさせられるようになる。学校に行く前に思っていた「キャリアステップ」として、「~業界をxx年経験して次は~業界へ」といったことは、非常にダサく感じるようになってしまう。どの業界に行くかどうかは問題ではない、自分が何をしたいか、自分でしかできないこととは何かが問題なのだ。


1、2を通して、あらゆる可能性が提示され、友達を通してどの業界にいくかが重要ではないことを知り、初めて、「自分にとって本当に大切なことは何なのだろう」ということを、素直に考えるようになったと思う。

自分にとっては、ダイナミックなインターネットの世界で、様々な人々とともに、世界のマーケットをリードしていく、それこそがやりたいことなのだと気づき、今の職場にいる。日々の仕事は本当にたいへんだが、それは自分がやりたかったことそのものであり、苦労するプロセス自体が楽しい。


ハーバードは、自分の幸せを考える機会を与えてくれた。僕はあの学校に本当に感謝している。

5/02/2010

走るということ、スポーツをするということについて

僕は、昔から、走ることが好きだ。
「お前はなぜ走るか」と聞かれれば、それは間違いなく「自分を知るため」「自分をより正確にコントロールするため」と答えるだろう。


中学校から、僕はクラブ活動としてバドミントンを始めた。バドミントンをやったことのある人はわかると思うが、バドミントンは一にも二にも持久力のスポーツである。基礎体力のために、毎日10kmほどを走りつづけた。クラブ活動としてのバドミントンは高校までで一端終えたが、走ることは大学生になっても続けていた。


走ると最初に気がつくのは、「いかに体が思うように動かないか」ということである。腿は上がらず、息は切れ、思うようにスピードが出ない。その状態に耐えて、しばらく続けていると、少しずつ、全身が自分の思うように動くようになってくる。いや、ただ無自覚に走り続けているのでは不十分で、「腿をこれだけ上げる」「スピードをこれだけ出す」といった、細かな全身のコントロールを意識的に行おうとすることが、少しずつ、しかし確実に自分の体を変えていく。走るということは、僕にとっては自分の体が自分の意のままに動いてはいないことを知ることであり、その自分の体と対話する、という行為だ。その行為を通して、徐々に自分を意識的してより正確にコントロールできるようになることが、自分にとっては走ることの醍醐味になっている。


「自分をコントロールする」というのは、何も肉体だけではない、感情も含まれる。感情に関しては、1対1のゲーム形式のスポーツを通して、自分をよりコントロールできる可能性があることを僕は知った。僕は中高はバドミントンのシングルスをやり、大学生から学校の授業を通してフェンシングを学び、社会人でSunday Fencerになった。バドミントンにせよ、フェンシングにせよ、対戦型のゲームでは、熱が入ると、「勝ちたい」という気持ちが湧き上がり、アドレナリンが自分の運動能力を引き上げ、反射速度を上げる。ゲームを通して、自分の能力が変わるのを体験するのが非常に面白かった。やがて、ゲームの前に、意識して「勝つ!」と感情を高ぶらせることを試みるようになり、自分のコンディションを意識の面からコントロールすることを試みるようになった。感情というのは、きわめて動物的なもので、その発生プロセス自体を変えることはできない。しかし、そのプロセスを理解して、適切な場面で適切な感情が発生するようにコントロールすることは、努力次第でかなり可能だ。


最近になって、週末に走ることを再開した。昔ほどは体は動かないが、その状態を知り、また少しずつ変えていくプロセスが面白い。仕事が一段落して、時間ができたらフェンシングも地元のクラブで再開する予定だ。


前にも書いたことがあるが、ヒトもしょせんはネズミとたいして変わらぬ動物の一種だ。だが、ヒトが面白いのはその条件付けを自分たちでできることだ。生まれ、感情に振り回されて生き、やがて病や老衰で死ぬのは変わらない。しかし、その自分の動物らしい側面を、走ることやスポーツを通してコントロールするというのは、きわめて人間くさい、おもしろい行為だと思う。