1/10/2011

マンモスにとっての「氷河期」、恐竜にとっての「ジュラ紀」

ここのところ、「就職氷河期」という言葉をよくきく。前々から、僕は「氷河期」という言葉に違和感を持っていたので、そのことについて書いてみたい。


「氷河期」と聞いて僕の頭に思い浮かぶのは、マンモスが歩いていた数千万年前の頃のことだ。これは歴史の話で、僕にとっては直接的には関係のない、とてつもなく遠い世界の話だ。

一方で、僕が新卒として就職活動していた10年足らず前も、「就職氷河期」と言われていた。が、僕にはどうしても自分の就職活動が上記の「氷河期」と結びつかなかった。僕を含めて、就職活動を行っていた同期たちは「就職大変だね」という話を世間話としてすることはあったが、だからといって「氷河期」という認識はもてなかった。僕らにとって就職活動は目の前の現実であり、「氷河期」とラベル付けするには、いささか日常的にすぎた。自分たちの日々の生活をまるで歴史の教科書の新しい一ページのように取り扱われるのは、とても「へんな感じ」だった。「就職氷河期、たいへんだね」といわれても、「たいへんじゃない」就職活動というものがどういうものか、ぴんとこなかった。氷河期に氷の上を歩いているマンモスが「この時代は寒いね」と言われてもぴんとこないのと同様に。


「氷河期」という言葉が使われるときは、それが使う本人にとって、はっきりいえば「ひとごと」のときだ。ある意味、歴史的事実、にひっかけた用語になってしまっている時点で「自分とは関係ない」というニュアンスを感じるのは僕だけではないはずだ。実際に「氷河期」という言葉の使い手をみると、いわゆる僕らのさらに一回り上のバブル世代、さらにはその上の世代だ。僕らにとって、(楽だったと彼らの言う)彼らの新卒としての就職活動が「ひとごと」なのと同様、彼らにとって僕らの世代や、今の新卒の世代の就職活動は「ひとごと」なのだと思う。上の世代は「たいへんだね」というが、実際のところ上の世代が下の世代に何かをしてくれるわけではないし、また就職活動する下の世代も大多数は「そういうものだ」と思って就職活動している。まあお互い就職活動はしょせん「ひとごと」なのだから「ひとごと」という扱い自体は間違っていない。


あえて、「氷河期」という言葉におかしいという点をあげるとすると、「氷河期」という言葉を使う人たちが経験したような就職活動の時代は、もう来ない、ということだ。

僕らの世代、下の世代の多くは、今の状況が「一時的な不況」だとは思っていない。ここでは難しい話をする気はないが、グローバル化、日本社会の高齢化、様々な構造的な変化によって今の状況は起こるべくして起こっており、この変化は不可逆的なものだと、僕らから下の世代の多くは思っている。また、今の状況が昔と比べて大きく間違っているとも思ってはいない。若いうちからスキルを積むことを求められ、グローバルにさまざまな地域、世代の人たちとひとつの労働市場の中で動いていく今の時代は、あるべき姿だと感じている者も多いと思う。むしろ「氷河期」と騒いでいる上の世代をみて「何をいまさら、とっくの昔に恐竜が時代を謳歌できたジュラ紀は終わったのに」というのが、僕らの大多数の感覚に近い。でも、きっと、彼らにとってはすでに終わった自分たちの時代を仮に「ジュラ紀」だといわれてもぴんとこないのだ。僕らにとって「氷河期」がぴんとこないのと同様に。